これは、泰麒が驍宗を王として迎える前――まだ、彼が蓬山にいた頃の話。
黄海に聳える五山の中心、蓬山。
そこには季節はなく、一年中常に花が咲き乱れ、ゆるりゆるりと柔らかな空気がたゆたう。
そこには大小幾つもの宮が存在していたが、西王母に仕える女仙たちの主な生活場所は限られ、例え蓬山に麒麟がいたとしても喧騒とは程遠い雰囲気に包まれていた。
そんな穏やかな空間を遮るものがあった。
今の蓬廬宮の主、戴国の麒麟が住まいにしている露茜宮に軽やかな足音が響き渡ったのだ。
きちんと教育が行き届いているからか、女仙は足音を立てて移動することなどそうそう滅多にないし、仮に音を立てたとしても、このように軽いものではない。
足音の持ち主は自然と限られていた。
――今、現在、この蓬山に住まう幼き者はただ一人。
「蓉可!蓉可!」
露茜宮で主の寝所を整えていた年若い女仙―蓉可の耳に入ってきたのは、大切な主のいとけない声。その声は心なしか弾み、息も途切れ途切れである。
蓉可は作業をしていた手を止め、声の主へと身体ごと振り向く。
「あらまあ。どうなさいました?泰麒」
「あのね、昔ね、こちらの空には太陽が九つもあったというのは本当?」
宮に駆け込んできたかと思えば、出し抜けにそんなことを言い出し、勢いつけて寝台のそばにあった椅子へとぺたりと腰かける。
他の女仙から何かを聞いたのか、女怪の汕子が昔話でも語って聞かせたか。
この蓬莱から戻ってきた幼い麒麟が気安いのを良いことに、女仙たちはいろいろなことを彼の耳に入れる。それをまた、泰麒が随分と楽しそうに聞いてくれるものだから、語る方も熱が入りさらに話が発展していったのであろう。
どちらにせよ、この幼い麒麟がこちらの世界のことに興味が示してくれることが何よりも嬉しかった。
「はいはい。本当でございますよ。それよりもこの汗をどうにかしませんと。このままでは風邪をひいてしまいますわ。さあさ、水浴びをなさって汗を流してくださいな」
また汕子と鬼ごっこでもしていたのか、かくれんぼでもしていたのか、はたまたその話を聞かされて一直線に露茜宮へと駆け戻ってきたのか、その黒鋼のような髪―実は鬣であるが―はしっとりとし、額には汗を浮かべている。きっと身体も汗を帯びているに違いない。
もう少し薄手の着物を用意しようか、と内心考えながら蓉可は受け答えをする。
「じゃあ、水浴びが終わったらお話してくれる?」
駆けてきた影響故の息切れもようやく止まり、一息ついたのか泰麒の口調が整ってきた。
「ええ、もちろんですとも。ですから、早く泉に参りましょうね」
言うや否や寝台を手早く整え終わり、すぐそばに備え付けてある棚から洗濯したばかりの綺麗な布を二三枚取り出し、主の水浴びの準備をする。
蓉可は石段のすぐ脇に置いておいた籠の中に布を入れるとそれを右腕に抱え、目線で泉へと向かうよう泰麒を促し、彼もそれに応えるように立ち上がった。
すると宮を出ないうちに、身長差があるため、どうしても上目遣いになる視線を伴って泰麒から声がかかる。
「はあい。…ねえ、手を繋いでもいい?」
「ふふ。構いませんわ。むしろお礼を言わなければ」
蓉可がそう言えば、泰麒は意味が分からないといった風に、ことりと首をかしげる。
世界に十二しかいない神獣―麒麟。
そのような尊い存在にこれほどまでの親愛の情を向けられることのなんと喜ばしいことか。いや、それでなくてもこの幼子の優しい気質に惹かれない者は女仙の中にはいなかった。
「そう、なの?」
「泰麒は気になさらないでくださいまし」
泰麒がこちらの世界に戻って来て、幾度となく通った泉への道。
この蓬廬宮がいくら奇岩に覆われ、迷路のような構造をしていても、汕子がついている彼なら、女仙の導きが無くとも辿り着ける程度の距離。
それにも関わらず、こうやって何かにつけて慕ってくれるその心根が愛おしい。
蓉可は泰麒に優しい眼差しを向けながら、泰麒は時折蓉可の顔を見上げながら、二人手をつなぎ泉へと向かうのであった。
* * *
泉で一通り汗を流した泰麒を抱えてきた布でくるみ込み、その滴を丁寧に拭い取る。
最初のうちはこうやって世話をされることに抵抗を示していたが、そのうち大人しく身を委ねてくれるようになった。
その心情の変化が日に日に明らかになってきており、他の女仙も喜んでいる。
替えの衣服を着せ、さて先ほどの約束だ、と思いながら、泉のほとり近くにあった石造りの椅子に腰かけるよう促し、蓉可は自分もその背後の椅子に座る。
まだ滴を含んでいる泰麒の髪を優しく乾かしながら、蓉可は話始めた。
「むかしむかし、この世界には太陽が九つありました。一つ沈めばまた一つ昇り、絶え間なく強い光に照らされ、大地は渇き、草木は枯れ、人々はその暑さに苦しんでおりました」
「そうだよねえ。あちらでも太陽は一つしかなかったのに、夏になるととても暑かったもの。九つもあったら大変だよ」
「そうでございましょうね。そこで、民を哀れに思われた天帝は、弓矢の名人に太陽を一つ一つ打ち落とすようお命じになったのでございます」
「ええ??太陽を落としちゃったの…」
蓉可が少し話せば、程よい間合いで合いの手を入れるかのように泰麒が問いかけをしてくれるものだから、話しやすく、するすると口から言葉が出てきた。
蓉可は決して饒舌な方ではなかったが、泰麒には人の気持ちを和らげさせる何かがあった。
「さようでございます。ですが、最後の一つだけは残すよう計らってくださり、今の太陽があるとのことですよ」
「そうだよね。全部無くなってしまったら皆が困ってしまうもの」
「あら、どうしてそうお思いに?」
「えっと、だって、お日さまの光が無いと動物や植物もちゃんと育たないし、何より体に悪そうだもん」
こんな他愛の無い昔話のことでさえも、きちんと考えその答えを出そうとしている。
この麒麟は優しいだけでなく、賢いのだ。
また泰麒びいきだとからかわれるのは目に見えているから、こんなことを他の女仙の前では口にするつもりは無いけれど。
「ええ。そうですわね。それに残された太陽には、もう一つ大切なお役目がございました」
「それはなあに?」
泉から上がってしばらく外気にさらされていた為もあって、大分水気のとれてきた泰麒の黒真珠のような髪を梳りながら蓉可は言葉を続ける。
「《夜》を作ることです」
「…夜を作る、の?」
「ええ。それまでは太陽が九つもあって、絶えず光に晒されておりましたでしょう?ですから、人々はなかなか体が休まりませんでした」
「そうだね。僕もあちらに居た時はお部屋を真っ暗にしないとなかなか眠れなかったもの」
おや、それは初耳だと、これから泰麒が寝静まった後の寝台近くの照明はもっと暗くなるようにせねば、と蓉可は一人ごちる。
最初の頃に比べればかなり気安く接してくれるようにはなったけれど、まだまだ彼に仕えるべき女仙にも遠慮をしている部分がたくさんある。もっと甘えてほしい、というのはこちらの我が儘なのかもしれないが。
「ですが、太陽が一つだけになり、ある一定の時間になると沈んで暗闇が訪れるようになったため、ようやく民は安らかに休む時間を取れるようになったのです。そしてその太陽の沈んでいる間のことを《夜》と呼ぶようになったのでございます」
「へえー。だから夜は暗いんだね」
「太陽が地平の彼方に沈んでいる間、月があるから決して真の闇ではありませんけどね、人間は光だけでは生きていけないし、ましてや闇だけでも生きていけない。両方が大切なものなのですよ、とこの話は教えてくれているのです」
「昔の人は大変だったんだねえ」
「そうでございますね。先人の様々な苦労の末に今現在の私達の生活が成り立っておりますからね」
一通り話し終わったことだし、風が若干ではあるが冷たくなってきた。露茜宮に帰さなければ。ここで体が冷えて風邪をひかせてしまっては元も子もない。
何より、こんなに長時間泰麒を独り占めしては他の女仙から恨まれてしまう、と内心思いながら声をかける。
「さあさ、そろそろ夕餉の時間でございますよ。泰麒がいらっしゃらなければ、腕の振るいがいがないと文句を言われてしまいますからね。参りましょうか」
「ふふっ。うん!僕お腹すいちゃった」
そう言うと、来た時と同じように、でも今度は何も言わずに、二人また手を繋いで帰っていくのであった。