「あーあ。一度でいいから、胸を焦がすような恋愛ってやつをしてみたかったなあ…」
全てはこの一言が始まりであった。
もう、後戻りは出来ない――。
* * *
慶東国国主景王・赤子―陽子が登極してから十数年の月日が経ったある日のこと。
その日の政務はあらかた終え、冢宰である浩翰や宰補である景麒も下がらせ陽子は私室で一人寛いでいた。
一人で使うには十分すぎるくらい横幅のある榻に横になりながら陽子はううんと伸びをする。
ここ最近は机にかじりついてばかりで身体を動かしていなかったなあと、禁軍の鍛錬にでも参加させてもらおうかと、景麒が聞いたら顔を顰めそうな王に有るまじきことを考える。
景麒のしかめっ面が容易に想像つくなと陽子はくつくつと笑いながら、ふと喉を潤したいと思い女官に茶を頼もうと身体を起こす。
こちらとあちらとでの様式は違うかもしれないが、誰かに作法を学んでお茶くらい自分で淹れたいと思うも、彼女達女官の仕事を取り上げてしまうのも気が引けて、陽子は大人しく王らしい振る舞いをするよう心がける。ある程度月日が経って女官たちと仲良くなれば、一人でお茶くらい淹れさせてくれるだろうと目論みながら。
国主という存在である陽子がそんな些細なことを楽しみにしながら、今日のお茶請けは何だろうかといそいそと女官を呼ぼうとすると、柔らかいもので何かを叩くような音が聞こえる。
王の私室であるここに、すわ侵入者かと反射的にそちらの方へと顔を向けるも、それは違った。
叩かれたのは露台に面した波璃の戸であり、見ればそこには、陽子が登極の際には随分と世話になり、今もなお変わらぬ親交をもってくれる隣国・雁州国国主延―尚隆の姿があった。
「よう息災か、陽子」
一国の国王がこのようにふらふらと出歩いていいものかと常日頃から思うが、自分もそれに倣って市場調査という名のお忍び行為をして城下に出ているものだから、強くは言えなかった。
それに、尚隆が誰かに言われたからといって止めるような人間ではないことを、陽子は長年の付き合いで身に染みて分かっていた。
「延王…っ!これはまた随分と急なお越しで。青鳥でも飛ばして頂ければよろしいものを。それに相も変わらずこの様な場所から…」
「このやり取りも何度目だ?俺はいい加減飽いたんだが」
呆れたように言う尚隆をよそに、陽子は彼の羽織っていた外套を受け取って、中へ入るよう促す。
「それでも、何度でも言わせて頂きます…。では、いつものように騎獣はこちらでお預かりしますね」
「厩に置いておくだけで構わんぞ」
「延王の騎獣をそんな扱い出来るわけがないじゃないですか…。もう」
確かに尚隆が「飽いた」と言うほど、この一連のやり取りは続けられているが、ある意味決まり文句のようなものなので陽子も言うのを止めるつもりはなかった。
「…それと、軽く用意させますね」
この台詞も、もうお決まりのようなものであった。
最初のうちこそ、女官たちも尚隆の突然の来訪には驚き戸惑っていたが、それが何回も、何年も続けば、ごく当たり前のように受け入れるようになった。
慣れた女官などは、急な言いつけにも関わらず、陽子が一声かければ「延王がお越しなのですね。承知いたしました」と笑みを零して対応するなど何とも頼もしい。
それに、彼女たちは尚隆の好みもきちんと把握しており、食事は勿論のこと、それを供する器も華美な装飾のあるものでなく、簡素ながらも品の良いものを選んで出す。尚隆もそんな扱いをしてくれる金波宮が居心地が良いのか、随分と気に入っていた。
「ああ。一緒に飲もうと良い酒を持ってきたんだ。何かつまみだけ頼む」
そう言うと小脇に抱えていた物をこちらに見えるように差し出す。
神籍に入ったばかりの頃こそ、あちらにいた時の習性でまだ成人していないのに飲酒をすることに気が引けいていたのだが、それももう随分と昔のこと。
あちらで飲酒が許される数えで二十の年などとうに過ぎた。
それに王たる者、祝いの席で酒を口にすることなど日常茶飯事であり、また各地の州の名酒を飲む機会もあった為、嗜む程度には飲酒をするようになっていた。
陽子よりも長年を生き、各国を歩き回っていろいろ目利きのきく尚隆がそう言うのだから、本当に良いものなのだろう。酒瓶を視界に入れ、少し楽しみだと思いながらふと疑問をもらす。
「そんな良いお酒なのに、一緒に飲む相手が私でいいのですか?」
陽子が尚隆を見上げるようにそう言うと、そう言われた尚隆は眉をやや顰めながら、陽子の形のいい額を片指で弾きながら口を開く。
「いたっ」
尚隆の思わぬ行為に陽子は呻き声をあげるも、当人は全く悪びれずに会話を続ける。
「なーにを言っておるんだ。俺が、お前と、飲みたいと思ったんだぞ。第一、うちの連中なんかと飲んでみろ。たちまち説教の始まりだ」
さも嫌そうな表情を浮かべながらそう言う尚隆に、陽子は額を両手で押さえながら笑って答える。
「ふふっ。そうですね。ではご一緒させていただきます」
いくら騎獣に乗ってはいえども、わざわざ雲海を渡って隣国くんだり持ってきてくれたのだからと、ありがたく相伴に預かる陽子であった。
* * *
「…と、まあ、このようなものでしょうか。すみません、上手に説明が出来なくて」
「いや、なに。陽子の話すあちらの話は面白い。他愛のない些細なことでも、それこそ日常的なことでさえも、俺のいた頃とは何もかもが違うからな」
「そう、ですね。私にとっても延王の話してくださることは興味深いことばかりです」
「…そうか。俺にももっと陽子自身のことを、陽子の思うところを教えてくれ。いろんな考えを知りたい」
「が、頑張ります」
こうしてしょっちゅうふらりと慶、というよりも陽子のもとを訪れるも、尚隆は陽子に何らかの話をさせながら静かに飲むだけで、問いかければ答えてくれるものの、自らはあまり口を開かなかった。
陽子にさせる話も、蓬莱のことばかりで、あまりこちらでのことは話したことはない。
無論、何かの流れで王としての在り方や国の在り方などを話すこともあったが、積極的にはしなかった。
こうも頻繁に会う機会があれば、自然と蓬莱でのことといっても話す内容が段々尽きてきている。最近では、それこそ陽子自身のかなり個人的なことにまで話が及んでいた。現に、何故その様な流れになったのかもう分からなくなってしまったが、蓬莱での男女の付き合いの話になっていた。
「まあ、幸いなことに私の通っていた学校は女子高―あ、えっと、女の子だけが通う学び舎のことです―でしたから、そこまで男女交際は盛んではありませんでしたが」
「俺のいた頃は、まず女が家の外に出て学びに行くこと自体が稀であったからな。家の外で男に会うこともそうそう滅多になかっただろう。親の決めた相手と婚姻を結ぶのが当たり前で、好き合う男女が自由に交際するなどもっての他だな」
「…正直、女子高で助かりました。この手の話題はどうも苦手でして」
手にしていた杯を卓に置いて、陽子は照れくさそうにこめかみを軽くかく。そんな陽子の様子を見て、尚隆はふざけたような言い回しをする。
「おや。景女王ともあろう方が、そのようなことをおっしゃるか」
「からかわないでくださいよ、延王…」
斜向かいに座る尚隆を少し恨めしそうに見遣りながら陽子はそう言うと、卓に置いた瑠璃色の杯を再度手に取って両手で持ちちびりちびりと口にする。
ああ、確かに尚隆の言うとおり美味しいなと思いながら。
――この瑠璃色の杯は祥瓊が見繕ってくれたものであった。
最初は飲めればどのような器でもいいと思っていたものの、「目で楽しむのも必要よ?それにお気に入りのものがあれば一層美味しいと思えるわ」とのことで、相成ったのだ。
それに「陽子の瞳の色に合わせたの」などと嬉しそうにそう言われてしまえば嫌な気持ちもせず、今では愛用している。
そんな目の前の相手の言うことから少々逃避したことを考えていると、真剣な声色をした尚隆の言葉に現実に引き戻される。
「いや冗談ではないぞ。登極して十数年。浮いた話の一つや二つあったのではないか?想いを寄せてくる官吏だとか」
「そんなことある訳がないじゃないですか。私もですが、皆、国を立て直すのに必死でそんな余裕ありませんよ。…それに私は、女性らしい魅力に欠けているから」
卑屈な気持ちや謙遜から来ている言葉ではなかった。陽子は至って真面目に話をしている。こればかりは尚隆も茶化そうとはせずに、深く深く溜め息を吐きながら聞こえるか聞こえないかの小さな声をこぼす。
「……お前はそう思っても、周りはどうだか…」
「はい?何かおっしゃいましたか?」
「いや。何でもない」
案の定陽子には聞こえず聞き返すも軽くいなされて終わってしまうが、同じことを聞き返すのも良くないと、陽子は話題を切り替える。
「そうですか?でも、そうですね。いったん崩れた国政の基盤も徐々に出来上がってきたし、最近ようやく少し落ち着いてきました。おかげで自分のことを顧みる余裕が少し出てきました」
はにかむようにそう言う陽子を、尚隆は眩しいものを見る目で優しく答えを返す。
「それは何より」
「でも、自分のことを顧みるといっても何をどうしてよいのやら、さっぱりです。蓬莱では、いい所に嫁いで子どもを産むのが女の幸せと言い聞かされてきました。でも今ならはっきりと言えます。そんな決められたように生きるのは私はまっぴらごめんです」
陽子が肩をすくめるような行動をとると、尚隆も笑い飛ばすように言う。
「はは、陽子らしい」
「そこで自分のことを顧みるとは何をすればいいのか、というところに戻ってしまうんですけどね」
「陽子は本当に真面目だな」
「そう、でしょうか。…今から思うと恋愛の一つでもしてみたかったなあ」
尚隆に言われたことに腑に落ちないという表情を浮かべながら、陽子はあちらにいた時にやり損ねたことを懐かしむように独り言ちる。陽子にしてみれば独り言のつもりで言ったことであったが、尚隆はそれにすかさず反応する。
「なに、あちらでは好いた男の一人もいなかったのか」
「先ほどの理由もありますが、あの頃の私は自分の感情に嘘をついて生きていたような気がします。だから余計にそういう男女の機微も分からなかったんでしょうね。今では人並みにそういうことに興味はありますよ」
つい先程まで誰かが自分に想いを寄せるなんてあり得ないと言っていたその口で、恋愛ごとに興味があるなどと言う陽子の口ぶりに尚隆は黙り込む。
そんな尚隆の胸中を知ってか知らずか、陽子は更に言葉を続ける。
「……」
「ただ私は王です。もし仮に誰か気になる相手がいても、騙されているのではないか、それが官吏相手だったら何かの折にその者の意見を重用したら不正だなんだと言われるのも目に見えている。何より、予王のことがあります。私が誰かと恋仲になるのは望ましくないでしょう」
人並みに恋愛をしてみたいと言いながらも自らを戒める陽子のその言葉に、尚隆は閉ざしていた口をようやく開く。
「――なら、俺ではどうだ?」
「え?」
「俺がその恋愛の相手ならばどうだ、と言っている」
脈絡の無い言葉に陽子は今度ばかりは聞き返してしまう。
そんな陽子に畳み掛けるように言葉を被せ、斜向かいにいたはずの尚隆がいつの間にか陽子の座っていた榻に移動し、すぐ横に座っていた。
尚隆の言っている意味が分からないのと、その至近距離に戸惑いながら必死に言葉を返す。
「どう、して…」
「一国の国主が相手ならば不正だなんだと官吏どもに言われる道理もないし、もしお前が色恋にうつつを抜かして予王の二の舞を踏みそうになったら俺が全力で止めてやる」
「…延王にとって何のメリットが。だって、私のことを好きなわけではない、のでしょう…?」
「≪めりっと≫やらが何かは分からないが、まあいい。なあに、ただの気まぐれだ。今はちょうど付き合っている相手もいないしな」
何とも遊び人らしい尚隆の物言いに、陽子は傷ついたような目を向ける。何故そんな感情が己のうちから湧き出たのかも分からずに。
「そ、んな…」
「俺が相手では不服か。お買い得だと思うがな。退屈はさせんぞ。だてに五百年は生きておらん」
「…恋愛とは、しようと思ってするものではないはずです」
訥々と自分なりの恋愛観を口にする陽子を尚隆は真っ向から見つめる。
「俺ならお前をその気にさせるのも訳はないと思うが。…『好きだ、陽子』」
「…っ」
いつにないその真剣みを帯びた声色に、己の名を呼ぶ声に陽子は勘違いしそうになるも、先程気まぐれだといったばかりの口から放たれた言葉に頷けるわけがなかった。
「お前が終わりにしてくれと頼むまでいくらでも付き合ってやろう。その間は他の女とも遊ばん」
「ならば、今すぐこんな茶番終わりにしてください!」
「それは聞けんな。……これが棚からぼた餅というやつか」
自分はからかわれているだけなのだと陽子は若干涙目になりながら、叫び声に近いような声を上げると、尚隆は一息にそう言うとさらに顔を近づけてくる。
「え?ちょ、やっ…!?おねが…放して…。息が、かかる…」
接吻をされるのかと陽子はあらん限りの力で抵抗するも、相手は成丁、ましてや剣客とも言われる尚隆の力の前ではびくともしなかった。
だが陽子の思っていたようなことは起きなかった。しかしその代わりとでもいうのか、陽子を強く抱きしめ、そのうなじに顔を埋めてくる。
今はそれどころではないはずなのに、「陽子はうなじ美人ね」といいながら己の髪を結ってくれた友人の顔が何故か今思い浮かぶ。
己を抱きしめる腕にさらに力が加わり現実に引き戻されるも、状況は何ら変わりなかった。
「…初心だな」
そのような状態で話されて陽子は気が気でなく、なんとか体勢を元に戻そうと躍起になる。今まで体験したことのない事ばかり次々と起こって眩暈がしそうであった。
「だから、その…」
更に言葉を重ねようとした時、視界が反転した。
昼間であったら滅多に視界に入るはずのないもの―天井が目に入ってくる。
何故天井がと思ったときには、榻に押し倒されていた。陽子がその事態を理解した時には尚隆は榻から立ち上がり、既にその足は部屋の出入り口へと向かっていた。
のろのろと体を起こす陽子に向かって尚隆は後ろを振り向きながら一言告げて去って行った。
「――覚悟しておけ。胸焦がす恋愛とやらを体験させてやる」
その時は絶対好きになんてなるものかと心に強く決める陽子であったが、数年後にはその誓いは覆されることになるのであった。